先祖返り通信
2003年月6月号 其の弐拾参

 新緑が日に日に濃くなり、紫陽花のつぼみもふくらみ始め、梅雨の到来を感じさせます。先月の夏野菜の植え付けの忙しさを抜け、一時の休息を与えてくれたかと思うと、ひと雨の後、畑にびっしりと出てきた草に休み時間終了のチャイムが聞こえます。また時折来る夏日に、冬の間は楽だったなぁ と部屋の中でも厚着をして夏を心待ちにしていた日々を忘れて想う今日この頃です。


インディアンのお絵かき

 オイラは絵を描くのが上手くない。でも百姓は絵描きたれ と教わった。
 それはスケッチブック持ってベレー帽かぶって という絵描きでなく、種蒔きした後の作物や畑などの状態を頭の中で思い描けるようになる ということだと思う。種を蒔く前、その作物がいつまで畑にいるか、収穫後、その場所で次は何を作るか考える。種を畑に蒔く時、成長して大きくなる姿を想定して、種蒔きの間隔を決める。日々の作業でも週間天気予報を頭に入れ、優先順位の高い作業から片付けながら続く作業の段取りをする。
 この頭の中でのお絵かきが上手くできないと、畑の中の中途半端な場所に作物が残り、次の作業をするために機械を入れて畑を耕すのに苦労したり、作業に必要な道具を積み忘れて要らぬ畑間の往復をしたりと、もたもたしているうちに作業がおっかない位たまってしまうことになる。本物の絵描き同様、センスも必要かもしれないが、失敗という経験を積み上げながら上達する以外、道はなさそう。

 以前にも書いたが、種を蒔いてから収穫まで、早いものでもひと月、一年以上かかるものもあり、百姓仕事は結果がすぐに出ない。まあ、それはどんな仕事にも当てはまることだけれども。先を見る目、その行程を描ける能力が仕事の良し悪しを左右する。
 農業以外でも植えた木の成長の遅い林業などは、ご先祖様が残してくれた木々によって生活し、孫の世代のために木の苗を植え、山の管理をする。あるアメリカインディアンの部族に至っては、たとえ一本の木を伐るのでも七世代後のことを考えて、どの木を伐るべきかを決めるという。その決定をするのに必要な想像力は、今のオイラには、それこそ想像もつかない。
 その場その場の積み重ねの上に将来があるのだから、すぐ先のことを考えて行動することも必要だけど、どこか大事な部分で長い目で見、未来に暮らす大事な人達のために行動することも必要だろう。長い目で見るのを、でっかいコンピュータに任せるのでなく、人が感じ、想像する必要が。
 便利で一見満ち足りている今、その想像力が削り減らされつつあるように思う。知り合いがFAXも携帯電話も持たないオイラに「FAXとかだったら相手が何しているのか気にすることなく連絡取れるから、商売してるんだから、そん位買いなよぉ。」と言った。弱気なオイラはヘラヘラ聞いていたけど、相手が何をしているのか気にすること、字のごとく「想う」ことが大事だと思うから、相変わらず連絡手段は固定電話と手紙だけ。それでも十分事足り、便利だ。

 昨今、ネットで知り合っただけの仲で集団自殺をしたニュースが続いた。一人一人が様々な理由があってのことだろうが、機械のスイッチをオフにする如く、自らの命を絶った後、身内がどういう気持ちになるか、彼らは想いもよらないのだろうか。便利な機械がどこかで人の心の大切な部分を吸い上げているような気がしてならない。

 今安い外材に押されて日本の林業もヘロヘロだ。孫の世代のために山を管理していたご先祖達は、荒れた今の山をどのような気持ちで天から見ているのだろう。今のアメリカを七世代前のインディアンが見たら、どう想うのだろう。どこからボタンをかけ違えたのだろう。どこまで便利にするんだろう。いつ、もう十分と思えるのだろう。折角手に入れた便利な携帯電話をのぞき込む多くの若者の目に力がないのは、どうしてだろう。なんでだろう。
 車や急行列車などのスピードのある乗り物の中からや、近くのものばかり見ていると、視野は広がらない。たまには顔を上げて遠くを見たり、歩いたり、立ち止まり、しゃがみこんでみたい。そしていくら下手でも絵を描きつづけたい。


今後出るであろう野菜たち

 6月は春野菜から夏野菜への移行期です。順調に行けば、今月から少しずつ夏野菜が入ってきます。ズッキーニ、キュウリなどの瓜類から、ナス・ピーマン、いんげん豆、おかひじき、おかのりなどが去年の実績ではセットに入っていきました。
 そして今月はじゃがいもの収穫です。皮の剥きやすい新じゃがのうちは、ミニじゃが小じゃが中心に出していきますので、ご了承願います。汚れを落とすだけで、皮を剥がずにも使えますが、剥いで料理したい場合は、すり鉢の中で米をとぐ要領で小芋を洗うと、きれいに皮も剥けてしまうと聞きました。お試し下さい。



今月の先祖返り

 私は携帯電話もパソコンも持ちません。だからメールなるものは送ったことも、もらったこともありません。でも手書きの手紙をもらうのはとても嬉しいものです。手紙の字をみて、会ったことのない人でも、その人柄や気持ちが伝わってきたりします。印刷されただけのあいさつ状などは、たとえ賑やかに飾られていても、どこかさみしいものです。一行一言でも自筆の文字があるだけで嬉しいものです。
 その文字が書かれた時の少しの間でも私のことを考えてくれていることが、嬉しいのだと思います。私も年賀状や通信など部数の多いもの(といっても大した量でもないのでしょうが)は、コピーに頼りますが、なかなか会う機会のない宅急便会員の方々などへは、乱筆、悪筆になっても、できるだけ自筆のコメントをいれていこうと思います。



後記

 中米で暮らしていた頃、当地の人たちからよく「チノ(中国人)」と呼ばれ、時には「チーノ・コチーノ(汚い中国人)」と悪意を持って言われることもありました。当初は「中国人じゃない!日本人だ!」と怒っていましたが、アジア系の顔をした人のことを総じて「チノ」と呼んでいることがわかり、次第に仕方ないと思うようになりました。でも最後までやはり良い気持ちがしませんでした。
 その一方で私たちはアメリカ大陸の片隅に押しやられているアメリカ先住民のことを「インディヘナ(インディアン)」と呼んでいました。その呼び方は、彼らにとっては侮辱的なものとは思いもせずに。15世紀末、彼らが住んでいる地をインドを目指して航海していたコロンブスに「発見(?)」されてしまったことに、その呼び方の起源があるのですが、もちろん彼らはインドに住む人々ではありません。
 クナ・マヤ・ミスキートなどなどそれぞれの部族の名前があります。「発見」される前にも彼らは高度な天文学の知識や自然と共存する術を持って、日々の生活を営んでいました。その地を勝手に「発見」され、武力により屈服させられ、その上ひとまとめに「インド人」と呼ばれ、良い気持ちがするわけがありません。そのことを指摘した本を読んで愕然としました。今回の文中では、あえて「インディアン」と書きましたが、せめて「アメリカ先住民」と呼ぶべきです。

 私たちは日常生活の中で悪気もなく、気が付かずに誰かを傷付けたり、困らせたりしていることが多々あるのではないでしょうか。今回のテーマにも繋がりますが、野菜の身になって、害虫の身になって、もちろんその当人にはなれないけど「〜の身になって」想うことが、今ほど私たちに求められている時はないと思います。

コバ

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